昭和五十六年七月三日 朝の御理解
御理解第九十一節
もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。
教祖様は人が助かることの為には、いつも自分というものを空しゅうしておられた。この方は人が助かる事さえ出来ればとこうおっしゃっておる。ただ人が助かることだけを願っておるというのではなくて、為には私がどのような修行もさせてもらいます。いわゆる修行精神のまあいうならば権化、結局自分というものを空しゅうしきった所から、生まれてきておるのが人が助かる事さえ出来ればというのだと思うんですよね。そん為にはあられぬ行もするけれども、為には後々も者が容易うおかげの頂ける事の為とまあいうわけでございます。
昨日はもう私の青年時代というか、昔の話を聞く日でした。次々とその話があった。お届けがございました中にね、椛目の中島さんが参拝してみえて、昨日は私はここから帰りに勿体島の原という新聞をここに配って来ておられるお爺さんがおられます、あの方の車に乗せて頂いて、もう本当にあの合楽に参ったということを聞いてね、もう合楽の先生はもう昔から私共は一家中で話しよったて。この人は絶対成功するばいというて話よったが、とうとう神様になんなさったですけんね、ち云うてその中島さんに話されたという話です。
私がお店を椛目に開かせて頂いた早々、弟を学校にやらせて頂くために、その学費だけでも思って、新聞配りを始めたんです。朝の四時にはもう勿体島、薗原産のお宅があのう、取次店でしたからあちらまで四時にはどげなことがあっても四時には、その時分には福岡日々新聞でしたかね、の自動車がピシッと来るんですから、それまでに、それを受けとらにゃならん。だから四時にはどうでも勿体島の所まで、飯田との堺の所でしたが、その新聞配りに対して姿勢体態出会ったかといったような事を見られたのであろうか、話を聞かれたのであろうか、同いうところをそういう風にまあ思われたか知りませんけれども、私はそれを聞いて自分で思うたんです。
この人は絶対成功すると人に云わせたり、思わせたりするもとは、私のどこにあったんだろうかということです。これはね、私がまあ云うならば、人が助かる事さえ出来ればという心の、が芽生えておったと云う事じゃないかと思うですね。弟を進学させる為に、自分を犠牲にする。こりゃ、私がまあ、兄弟は椛目の妹一人しか残っとりませんけれども、此の妹たちの上にでも、使うた私の心と云う者を、まあ四、五十年前も前の話を思い出してみてです、ははあ、こう云うところがこの人は成功するとまあ、と同時に親孝行の心というのがあのう、私がそういう風に人に思わせたり、云わせたりするもとであっただろうと思いますけれどもね、信心はどうでも、云うなら、自分を空しゅうする心という自分はどうでも善いから、子供を助けて下さいとかね、こりゃ、親として、よく云うことですけれども、これが全ての点にですね、云うならばそういう風に現れて来ると云うのが信心では教祖がおっしゃるね、本を執って道を開く者はあられの行をするけれども、それを云うと、この方は人が助かる事さえでければと云うことなんですね。
だから助かることさえ出来れば、昨日は又どうにもこうにも手が付けられんじゃないのと云うような、お取次をさせて頂いたんですけれども、昨日はここ四時半下がってからお風呂から上がって迄も、そういうとてもとても深刻な、先生もお疲れになっとるけれども、これだけはどうでも先生にお願いせにゃというて、大分から参って来た人達が三人ございましたが、もう話を聞いて、もういくらもうこの事はもう合楽の先生の云わっしゃる通りにするけん、親先生の一言を聞きたいと云うて来とるけれども、その一言二言で助かる問題じゃないですもん。
お昼に参りました、こりゃある教会からの手紙でそれこそ長々としたお手紙でしたが、合楽の信心に大変興味を持っておかげの泉なんかも読んでおられるお教会だそうですが、最近御普請がでけたんです。立派にでけたそうです。所がその支払いで大変な難儀困って、その為教会がもう何かこう思いが一致せん。とにかく自分が早起きして主人が早起きせん、子供達がガタガタともうとにかくまあその手紙を読ませて聞いておったんですけれど、佐田先生が読んでくれました。こりゃ、あんた助かりようがなかのちいうて、まあ聞き終わった時に申しましたんですけれども、結局ね、本当なことが分かると云うことだ。本当な事が分かれば簡単なんだ。だから合楽に皆さんが御神縁を頂いておかげを頂いておられるのわね、そのいよいよ本当の本当を求めての信心でないと、信心が難しゅうなります。 昨日大分の方からみえたつも、こりゃもうとにかく男と女の関係の問題でしたが、その三角関係ね、それこっちにも子供が出けた。自分にはまだ三人も子供がある、それを7年振りに家内が知ったと云う。もう七年間自分をだまし続けたというて、その激昴した。そして問題がいよいよ大きくなったとこう云うのです。まあ云うならどうという、それが丁度七年前にその奥さんとの問題で一辺参って来たことがあるそうです。そん時に神様がこりゃもう、乗り換え時期が来とるばいちおっしゃったげな。私は覚えんもん。それはだからあん時乗り換えときゃ善かったばってんち云うことでした。
それば又しだごだで一年間続いている中に、そういう問題がおこったというわけなんです。神様は見通しだなぁと思いますね。七年目にそう云うことが起こると云うことになる、だからもう今ん中乗り換えとけとこう云うことです。ね。そういう例えばなら手のつけようもない問題があってもです、今云うそんなら、自分が本気で犠牲になるという人が分かって、その本当なことを頂いたら、それひとつでいいわけね。
云うならばここで云われる一切土の心で行こうとかね、ほら、もう苦しい事だ、悲しいことなんだ。なら教会の問題なんかでも、手がつけようがないです、実際。
だからひとつひとつお取次頂いて、そして段々おかげ頂くようにというような問題じゃ、もう間に合わない。ね。
そこでなら、自分の連れ合いの教会長先生奥さんからの手紙ですからね、の。先生じゃない、子供じゃない、信者じゃない。信者はそんな風に立派な普請が出来て、その沢山な借金が出けたもんだから、信者は離れていってしまうというような難しい中になってです。あなただけは合楽に御縁を頂いて、あなただけは合楽理念を段々勉強しとられるのだから、ね、例えば主人が朝の御祈念に出なかろうが、信者が減ろうがです、その事をあなた一人が合楽の心で行うたら、問題じゃないじゃないですかね。
先日から頂く悲しいということ、それは心ならず、心に非らずということなんだけれども、それが夢にも思わなかったおかげのそれが修行であると思うたら、その事に御礼が言える、もうその事一言じゃけん、佐田先生はその事を云うてやんなさいち、まあ申しました事です。本当の事が分かったら、それが信じられるわけです。
そういう本当なことかというと、それは私共が夢にも思わなかったようなおかげの頂けれる、これは神様の神愛の現れであると、いうなら本当の事が分かる。本当の事が分かるから、悲しい苦しい、どうにも手の付けられないような問題も合掌して受ける事が出ける。だから問題は本当なことが分かり、それを信じれるということなんです。合楽の場合は分かりますよね。
けれどもそれを信じれる事のために、皆さんの日々の此の修行があってるわけなんです。そして、なら、それを又かみ砕きますとです、私が修行するということ。私が受けますということ。それが家族の者が助かる事ならば、周囲の者が助かることのためならば、人が助かる事さえ出来ればの精神です。
これは三十日の御礼信話会の時に最後に久富繁雄さんが発表しとられましたが、最近今度、なんですか、普通乗る善い車ですね、もうトラックとかいろいろ車はいくらもあります。今度その自家用車ですかね、普通使われる車を今度お取次頂いて買われた。所がその車のナンバーが七七九六という番号であった。ハハァなかなか難しい車の番号を頂いたなぁというわけです。
そこで長男、長男というが、息子さんの国男さんがお父さんこりゃどういう風に頂いたがよかろうかと云うて、尋ねられた。そこでそのこげな風に応えましたという話をされました。七七ということは七という字を漢字で書いてみれと、ちょっと曲がっておろうがと。ここん曲がっとるとばね、ちょっと真っ直ぐするとプラス(+)という字になろうが、たす(+)という字になろうが、と七七ということは改まりに改まるということぞと、俺達夫婦がね、お父さんとお母さんが、お母さんのいうなら、どうにも出けない病気から御神縁を頂いて何十年間、今日までの間には随分なんか、様々な所を通らせて頂いたけれども、今日村の人達も俺達の家の事をどういうておられるかと。繁雄さん方ばっかりはふのよか事ばっかり続く。と云よるじゃないかとね。それはね、決してふのよか事が続いとるとじゃない。
云うならば俺達夫婦の者が改まりに改まって今日まで信心を続けてきたおかげ。様々な事もあった。もうそれこそこれがいわば九ですね。七七九。それこそきゅうきゅう云うような所もあったけれども、そこを乗り越えた先に、六と云う字になっとる。六と云うのはお徳と合楽では云われるがね、それを受けたところに、今日の人がそれこそ久富さん所はふがよか事ばっかりと云われるようなおかげにあんっておるのだから、これはお前達夫婦がいっちょこのね、改まりに改まり七七の所を少しづつ改めていって、どんな事があっても、これを乗り越える信心さしてもろうて、お徳を受けよという事じゃろね。というて話した。
私は聞いとって感心した。ね。信心のひとつの歩みというか、過程というのは決してよかこつばっかりというのじゃない。その度んびに夫婦の者が改まりに改まって、最近お婆ちゃんも信心を聞いておると、素晴らしい。いよいよいうならば、その日その日の成り行きを大切にさして下さいという此の、願いに徹して聞かれておる。ね。そこからね、いうならば、苦(九)を乗り越える手だても分かっていうならば、禄(六)のおかげを頂いて、人からもうらやましがられる程しのおかげを受けておるというのが、久富繁雄さん一家の今日のおかげの状態だということをね、聞かせて頂いたんですけれども、全くその通りなんですよ。
信心だからもういいこと、その又売れた又売れたといったような事ばかりはないということね。けどもそういうひとつひとつのおかげを頂いただけじゃなくて、そういうその都度に、体験さして頂くのは、本当だから本当の事が分かって来たちいうこと。ね。
そしてギリギリの所どういうかというと一切が神愛、人じゃない自分自身が助かればよいのだ。家内がついてこん、子供がついてこんじゃない、自分自身がいよいよいうならば、悲しい事であっても心ならずの時ほど、いよいよ夢にも思わなかったようなおかげの頂けれる修行の前提だとして、その事に合掌出けれる所まで、本当な事が分かっていくことなんだ。
そういう意味で、私はね、本を執って道を開く者は、あられぬ行をするといわれるけれども、後々の者は容易うおかげを受けられる。それを教えに残しておられるその教えをなら、私共が本気で行ずる事になるときになら、繁雄さんの三十年でしょうかね、信心を振り返られたときにですね、大変あげな難しい時もあったけれども、神様一心にお縋りして切り抜かせて頂く、後から考えてみると、対して難しい事じゃなかったと。成る程み教えに生かされて生きておる今日であるということが分かった。為には皆さんの家では、皆さんがやはり、ほんと執るのですから、いよいよその本を執らせて頂くためには、犠牲の心、犠牲の精神。それが有り難く出けれる人が助かる事さえでければという精神。そういう本を執らせて頂く者が、そういう本当のものを確固たるものにして、それを子供に伝えていくでも、確信を持って伝えられる私は内容を、いよいよ身につけて行かねばいけないと思う。 どうぞ